【アドラー心理学】いまをダンスする「嫌われる勇気」「幸せになる勇気」を徹底的に深掘りします!

~いまをダンスするとは!?~

岸見一郎氏・古賀史健氏による「嫌われる勇気」「幸せになる勇気」は、誰もが一度は書店で見かけたことのあるタイトルではないでしょうか。

そして、アドラー心理学をこの本で知ったという方も多いと思います。

本書の中には、人生を豊かにする理論がたくさん述べられている一方、「どういうこと?」と理解するのが難しい理論が書かれていることにも気づきます。

その中でも今回取り上げるのは「人生とは、いまこの瞬間をくるくるとダンスするように生きる、連続する刹那」(「嫌われる勇気」p.266)です。

わかるようなわからないような…。

そして、ここに至る過程で「計画的な人生など、(中略)不可能」」(「嫌われる勇気」p.265)と述べられており、未来は不可能なものだと主張されています。

さらに、「トラウマを明確に否定します」(「嫌われる勇気」p.29)と、過去に言及した上で、「ほんとうの意味での、『過去』など存在しません」(「幸せになる」p.65)と述べられています。

すなわち、過去や未来はほんとうの意味で存在しないのだから、今を精一杯生きることが大事だということです。

しかし、反例を思い付きませんか?

過去については、歴史学、動画、写真などが否定的に見られます。
カメラやYouTubeは存在自体が怪しいのではないかと。

さらに未来については、人生計画、キャリア設計、キャリア教育などが否定的に見えてしまいます。

実際「嫌われる勇気」の中でもキャリア設計は不可能だと述べられています。
すると、保険なんて完全否定できてしまいませんか?

1.【過去】過去は存在しない
2.【過去】誰がどう意味付けするか
3.【未来】計画は不可能
4.【未来】刹那的な見通し
5.いまを生きるとは
6.まとめ

今回は、ほんとうの意味での「いま」とは何かを、反例を基に探っていきたいと思います。

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1.【過去】過去は存在しない

2つの書籍の中で、過去は主観的な産物であることが述べられています。

例えば同じ旅行に行ったメンバーの中でも、一人一人どの記憶が保持され、優劣がつけられているか異なりますよね。

海水浴を最高だと感じている人がいれば、旅館が印象的だった人もいるはず。

このように、過去は主観で形成されているため、揺るぎない真実としての過去は存在しないのです(例は本稿オリジナル)。

しかし、そうなれば歴史学はどうなるのでしょうか。

すべて真実でないなら、学ぶことすら愚かであり、何をもって学問としているのかと疑問に思うのではないでしょうか。

また、動画や写真は過去を映し出すものですから、これらも「存在しないもの」として扱うべきなのでしょうか。

2.【過去】誰がどう意味付けするか

誤解してはいけないのは、「ほんとうの意味」で「過去」は存在しないということ。

過去と言えば、みんなが共通して見ることのできる昔の事実だと捉えてしまいがちではないか?と警鐘を鳴らしているわけです。

だから、自分が「これが過去だ!」と言い張っても、他人からは見ることができないし、自分が見ている過去すら「造られたもの」であると言うことです。

では、歴史学についてはどう考えれば良いのでしょうか。

これは「いま」において、個人ではなく人類の規模で「大切」だと共通認識されているものだと考えれば合点がいきます。

そもそも「いま」を全力で生きるためには、現時点で出せる最適解を求め続ける必要があります。

そうでなければ「サボり」や「手抜き」になる可能性があるからです。

そのためには「いま」の地点から見える過去を知ることで、「いま」の選択をより正解に近づけていけるのです。

これを、個人ではなく人類の規模で見るのが歴史学です。
歴史学は、共同体としての最適解を見出すことに繋がると考えられます。

動画や写真についても同じことが言えます。

過去のある地点を記録したものと考えると、写真や動画自体に価値はありません。
それをどのように使うかで、真の価値が生まれてきます。
カメラやYouTube自体に是非を求めるのではなく、それを使う人が価値を決定するのです。

確かにほんとうの意味での過去は存在しません。

だからこそ、どの過去を見るかが大切になってきます。

「嫌われる勇気」では、過去を否定しているのではなく、過去の見方について教えてくれているのだと言えます。

3.【未来】計画は不可能

「嫌われる勇気」では、人生は点の連続であり、未来を設計することは不可能だと書かれています。

確かに、「いま」が無数に連なることで線のように見え、あたかも陸続きであるように見えます。

しかし、「いま」と1秒後の自分がまったく同じではありません。

もし同じならば、石像のようにその後も同じでしょう。
石像でさえも1秒経てばどこか劣化していて、絶えず変化しています。

よって、「いま」未来を設計しても、1秒後の未来すら予知することはできず、ましてやその通りに事が進むことはできないのです。

では、人生計画、キャリア設計、キャリア教育はどう考えればいいのでしょう。

さらに、入院保険などの保険商品はまったく無意味だと言えてしまうのでしょうか。

4.【未来】刹那的な見通し

人生計画、キャリア設計は無意味なのでしょうか。

いえ、無意味ではないでしょう。

理想の未来を具体的に描き、目標をもって生きることは素晴らしいことです。
ただ、「計画通りに進めようとしてはいけない」のが注意点です。

2つの書籍では、計画することを否定しているのではなく、あたかも計画したものが正解であるかのように信じることを否定しています。

受験勉強で例えると、入りたい大学のために勉強するのは良いことです。
しかし、その勉強が大学入学のための我慢であってはいけないのです。

「今のうちに苦しい思いをして、大学にいくぞ」と言っていては、いまを生きていることになりません。「確かに苦しいけど、この勉強を全力ですることが大切なんだ」と思えたとき、いまを生きていることになるのでしょう。

いまを生きずに受験勉強をした場合、希望大学に落ちたとき「人生の道を違えた」と思うかもしれません。

しかし、いまを必死に生きた場合は、「これはこれで何かの縁だし、悪いことではない」と心から思えるでしょう。受験勉強自体、練習ではなく本番なのです。

人生計画やキャリア設計の話に戻ると、これは下の図で言う緑の矢印に当たります。

現時点で見える未来を予測し、そのための最適解を「いま」行なうためのヒントになるのが人生計画やキャリア設計だと言えます。

しかし、何度も言うように絶対的な目的と化しては元も子もありません。

変更点が見えたときに都度訂正しながら「いま」を生きるのがいいのでしょう。もしかしたら、「計画」「設計」ではなく「見通し」というライトなイメージの方が合うのかもしれません。

保険に関しても同じです。

現時点で考えられるリスクヘッジの手段が保険です。
もしかしたら、1年後に不要になるかもしれません。

そのときは手持ちの保険にしがみつかず、また見直しをすればいいのです。
「いま」見えるリスクを回避することはいまをダンスすることに繋がるのではないでしょうか。

5.いまを生きるとは

2つの書籍にある「いま」とは、点としての現在という意味ですが、決して過去や未来を切り離したものではないように思います。

その点の中にも世界が広がっていて、点の中でできることすべてが含まれた概念だと捉えるべきだと思います。

だとすれば、ひとつの線だと思って生きてきた人と比べ物にならないくらい大変で、労力のかかる生き方なのでしょう。

なぜなら、線で生きてきたひとは手を抜くことができますが、点で生きていくにはどの点においても本気で生きていかなければならないからです。

過去を言い訳にすることなく、未来を勝手に決定するのでもなく、暫定的な最適解を実行しながら生きることが「いまをダンスする」ことなんだと読み取ると、その厳しさと面白さが見えてくるように思います。

6.まとめ

今回は、「嫌われる勇気」「幸せになる勇気」より、反例を基に「いまを生きる」を考察してみました。

本稿のように考えると、過去や未来はむしろ「いま」における重要な構成要素であることが伺えます

間違えてはいけないのは、だからといって過去や未来に固執するのではなく、あくまで「いま」のために過去や未来を使用することでしょう。

みなさんのご意見やコメント、是非お待ちしております♪

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