子育てをする親御さんは、とっても忙しいのでしょう。
朝早く起き、ご飯を用意したと思えばすぐに仕事に行き、職場でストレスを受けてからの帰宅。
家ではまた子どもの世話をして、自分のために時間を割けないまま次の日へ。
もちろん休日はそのウェイトが変わるだけで、疲れ度合いでいうと平日と同等かそれ以上かもしれません。
そんなときに言ってしまうのも無理はありません。「ほら、言ったでしょ」と。
しかし、この言葉は非常に危険なことはご存知でしょうか。
今回は、「ほら、言ったでしょ」を分析しつつ、その裏側にある教育のメタファーについて考察していきます。
1.本音の分析
2.人は失敗に学ぶ
3.子どもが所有物!?
4.何が問題か
5..では、何と言えばいい?
6.まとめ
1.本音の分析
「ほら、言ったでしょ」はどんな場面で出てきますか?
・熱いものを食べない方がいいと注意したのに聞かず、火傷をしたとき
・当日の準備を前日にした方がいいと忠告したにも関わらず、当日の朝準備し、忘れ物をしたとき
・勉強するよう言ったのにせず、テストの点数が低かったとき
こんな感じでしょうか??
共通するのは、子どもの不利益が予想されることを伝えたにも関わらず、その子が不利益を被っていた場合です。
親の気持ちとしては、「だから、次は同じ失敗をせず、しっかり言うことを聞いて痛い目を見ないでね。そして、そんな苦しい思いをしないでね。」だと思います。
しかし、まだ共通するものがあります。
それは、「助言に従わなかったでしょ」という感情的で支配的な側面です。
「いやいや、本当に失敗してほしくなくて。」という方もいるでしょう。
もちろん、痛い思いをしてほしくないのは親心です。
しかし、真の親心として認めてしまっていいのでしょうか。
なぜなら、これらの背景には、子どもを所有物と見なしてしまう慣習が潜んでいる可能性があるからです。
「所有物」を詳しく説明するには、失敗と成長の関係を説明しておく必要がありますので、まずはそちらから見ていくことにします。
2.人は失敗に学ぶ
「失敗は成功の母」と言われるように、失敗なくして前進することはできません。
思い出せば、私たち大人もこれまで数々の失敗をしてきました。
大人の世界でも成功者が「若いうちに失敗しろ!」と説く自己啓発本が多数あるくらいです。
それほど、成長するための失敗は大切なのだと言えます。
子どもも同じで、むしろ「学校は間違うところだ」といった言い方があるように、子どもには失敗から学ぶことを推奨する程です。
よって、大人と子どもを区別せずとも、全人的に失敗は成長の必要条件であることがわかります。
3.子どもが所有物!?
所有物とは、対象を支配的かつ自己中心的に動かすことを表しています。
また、ここには指示する側のエゴイズム(自己中心主義)や上下の関係があります。
例えば、「ジュース買ってこい」といういわゆる「パシリ」はその典型例でしょう。
ジュースを買ってきてほしいのは命令した本人の考えです。
よって、自分のために人を動かすのでエゴイズムと言えます。
また、尊敬する先輩に「パシリ」をさせることは決してありません。
なぜなら自分より格下だと思う相手にしかさせられないからです。すなわち上下の関係が成立します。
よって、「パシリ」は相手を所有物と化していることになります。
さて、本題の「ほら、言ったでしょ」ではどうでしょうか。
先に述べたように、この言葉には失敗してほしくなかったのに、という意図があります。
しかし、失敗しなければ人は成長しないことも事実です。
従って、子どもの失敗を自分の経験に重ね、先回りして予めその痛みを取り除こうとする行為は、子どもの成長の機会を奪っていると言い換えられます。
痛い思いをするのが目に見えているからこそ、大人の判断で停止させますが、結局従わずに思った通りの失敗をします。
そして、「なぜ従わなかったの?」と。これはエゴイズムに陥っている可能性があるのではないでしょうか。
また、上下の関係もあります。「ほら、言ったでしょ」は、部下から上司に放つ言葉ではありません。同じように、矢印が子どもから大人に向くと違和感がありますね。
よって「ほら、言ったでしょ」と言ったことによって、上下の関係を規定してしまうのです。
もちろん、「ほら、言ったでしょ」は「パシリ」とは異なります。
価値観や方向が違うからです。
しかし、上下の関係やエゴイズムが共通項だとすると、「ほら、言ったでしょ」は、結果的に子どもを所有物としていることの象徴と言わざるを得ません。
信じがたいことですが、よかれと思ってやったその教育は、結果的に子どもを所有物と見なしてしまっているのです。
4.何が問題か
確かに、親の協力なくして子どもは生きていけません。だからといって所有物にしてはいけません。
所有物になると、まず子どもは親に従わざるを得なくなります。
その結果、大きく2つのことが考えられます。
1つ目は、親に従順になる道です。
一見良いように見えますが、これは親の人生を生きることと同義です。
親の言うことがすべてになり、親の範疇を超えません。
子どもは親が喜ぶために、または怒らないために行動し続けることになります。
人生の選択と決定は、自分のためではなく親のために行うのです。
2つ目は、親に反抗する道です。
どんなに正しいことを説いても、所有物にならないように反抗し続けます。
すなわち、反抗することが目的になるのです。
こちらも、結局自分のための人生ではなくなっています。
以上のように、子どもを所有物とするということは、子ども自身の人生を壊すことに繋がってしまうのです。
そして、そんな身体性が染み付いてしまっていること自体を危惧しなければなりません。
5.では、何と言えばいい?
例えば、ベッドの上で走り回る子どもに対して、「落ちて怪我をするからやめなさい」と言う場面だとしましょう。
もしここで無理やりにでも止めさせていたら、落ちることや、落ちたときの痛みを知らずに過ごしてしまいます。
すると、落ちるとどうなるか知ることができません。
すなわち、机の上や階段、少し高い段差から飛び降りることに恐怖を感じないでしょう。
次はベッドとは比べ物にならない怪我をする可能性が高くなります。
だからこそ失敗を許容したいものです。
では、放っておくのが正解か。いえ、そうではありません。
まず、「止めなさい」ではなく、落ちるとどうなるかを言葉で説明します。
そして、「だから『わたしは』止めてほしい」とI(アイ)メッセージで伝えます。
これで本人も落ちたときの覚悟をしなければならない状況になります。
親の仕事はここまででしょう。あとは子どもに任せます。
たぶん、子どもは落ちるでしょう。ここからが親の力の見せ所です。
「痛いね、次からどうすればいいか『一緒に』考えようか。」
「痛いね」で、本人の状況を受け入れてあげます。
さらに、「一緒に考えよう」で「あなたの味方だよ」というメッセージを伝えます。
子どもは、「ベッドの上で跳び跳ねなければよかったのか!」と、真に理解するでしょう。
失敗したからといって突き放すわけでもなく、いつまでも同じ方向を向いていたいものですね。
6.まとめ
今回は、「ほら、言ったでしょ」という言葉から、その裏にある支配的なメタファーが存在することを見てきました。
難しいのは、「ほら、言ったでしょ」と言わなければいいだけだ、ということではありません。
このような言葉が発されると言うことは、支配的な心がどこかにあるということです。
世の中が当たり前のようにやっている教育は、実は大きな間違いに繋がる可能性があります。
まずは、それが本当に正しいのか疑っていかなければなりません。