仕事をする上でいやでも見えてくるのが、仕事の出来、不出来。明らかに効率の悪い人もいれば、あまりにも自然に仕事をこなす人もいます。
前者を見るとイライラしてきたり、「自分と同じだ」と感じたりすることもあるでしょう。
また、後者には憧れや尊敬、嫉妬など、それぞれの立場からの感情があるのではないでしょうか。
そんなときに無意識に考えているのが人の価値です。
あの人は仕事の「できない」人、この人は仕事の「できる」人など、少なからず評価した価値が混ざっています。
1.価値は相対的? 2.価値と生産性 3.生産性では説明がつかない 4.価値の概念を捨てる 5.評価者になっていないか 6.絶対かつ固有な視点 7.生産性以外の怪しい基準 8.まとめ
今回は、人の価値について考察していきます。
1.価値は相対的?
人の価値は何で決まるのでしょうか。
おそらく、判断する人によって大きく変わるだと思います。
例えば仕事においては仕事の出来具合でしょう。
学校に通う人は成績の良さ、社会全体では収入の多さ? 功績? 知名度?
それぞれが信じる評価基準によって相手方が評価されているかと思います。
しかし、これは真の価値と言えるのでしょうか。
仕事ができなかった人が、ある時を境にできるようになったとして、その人の価値は「上がる」と表現できますが、本当に上がったのでしょうか。
2.価値と生産性
ここで疑問が生まれます。人の価値は変動するものなのかと。
いえ、そうではありません。
というか、そうでないと信じたい。人は、固有のもので、絶対的な価値があるはずです。
でも、仕事の出来で価値が変わるという感覚は、現代社会において、流布されたものであるように思えてなりません。
「できない人」というレッテルが、社会的な地位の下落に繋がることが想像できれば、この考えは伝わるのではないかと思います。
なぜこんな疑問が生まれてくるのかというと、現代社会では知らぬ間に「価値」と「生産性」がすり変わっているからだと思うのです。
「この人はどんなことがどれだけできるのか」の視点から、できる人は上、できない人は下になる暗黙の了解があるように感じます。
無理もない話でしょう。
市場原理がウェイトを占める現代では、生産性こそが大切で、企業や個人が生き残るためにはこの基準が一番合理的です。
「できない人」を会社に残しておくことは組織存続の危機に繋がりますから。
3.生産性では説明がつかない
価値と生産性を混同してしまうと、色々なところで説明がつかなくなります。
例えば、教育の世界です。
インクルーシブ(すべてを含むという意味)という言葉が巷では浸透してきたと思うのですが、教育の業界ではインクルーシブを推進する傾向にあるようです。
ADHD(注意欠陥多動性)、LD(学習障害)、知的障害など、どんな特性のある子供にもニーズにあった教育ができるようにということですが、これは生産性というメタファーを排除するのに有効です。
仮に、教育の世界が生産性基準なら、成績のいい子しか認められません。
ましてや、特性のある子は排他的に見られるでしょう。そんなバカげた話はありません。
しかし、現実には入試や点数主義といった、生産性重視の考え方があるのも事実です。
悪いことではないだろうと思いますが、全人的な教育には成り得ないことは理解しておかなければなりません。
家庭においても、生産性基準では崩壊の一途をたどります。
一昔前の「誰が稼いでやってると思っているんだ!」と威張る父親は、お金という最も目に見える生産性の基準を提示します。
それに比べ母親はというと、専業主婦の場合、日常生活ができるように土台を整えているだけでさらなる生産力はないように見えます。
もちろん、そんな母がいなければ人間らしい生活ができなくなるという点では大きな生産性があるわけですが、表面化するものではないので、どうしても「お金」が先行してしまいます。
仮に共働きだとしても、「どちらがよりたくさん稼いでいるか」で生産性に優劣がついてしまい兼ねません。
それではその仕事そのものにも優劣がつくことになりますが、果たしてそれは正しいと言えるのでしょうか。
4.価値の概念を捨てる
では、生産性と価値を結びつけないとしたら、人の価値はどうなるのでしょうか。
おそらく、価値は平等だと言えるでしょう。
どんな性別、年齢、出身、職業、関係なく、人の価値は平等です。
そもそも平等だと量ろうとするからいけないのであって、価値なんてあるもないも言えないし、量的な意味で等しいとすら言えないだろうと思います。
全員価値なんてないし、全員同じだけの価値しかない。
例えば、量的に100なのか1000なのかは関係なく、どの点で平均しようと同じ値が出てくるし、総量がいくらであっても問題ではないということです。
価値が「ある」といえば対極には「ない」がありますから、そういった意味で、価値という概念自体が危険なのかもしれません。
5.評価者になっていないか
価値という概念に惑わされないためには、まずは自分が評価者であるということを自覚しなければいけません。
「あの人、仕事ができるから羨ましい」と言えば、「できる」と評価していることになります。
仕事自体を評価するのは悪いことではないのですが、この時点ですでに「人の価値」と混同している可能性があるのです。
よって、そもそも人を評価するのをやめてみてはどうかと思うのです。
人を評価することで自分も評価していますから、相対的な自分の立ち位置が浮き彫りになってきます。そして、相対的に価値がないと思った瞬間に心が悲鳴を上げはじめるのです。
反対に、相対的な価値を高く維持できている人は、虚勢を張るような側面が強くなるのかと思います
加えて、きっと維持する労力も莫大なものです。
これでは楽しい人生と、手放しでは言えそうにないですね。
6.絶対かつ固有な視点
人の価値について、正しく理解し生きていくためには、絶対性と固有性の2つの要素が重要だと考えられます。
誤解してはいけないのは、価値は「ない」のではなく、「ある」のですが、対極に「ない」を伴わない「ある」です。
いわば「名前」のような絶対で固有なものであると思えば理解しやすいかと思います。
量的でも質的でもないことを加味するとより理解しやすいかもしれません。
7.生産性以外の怪しい基準
ここまで生産性と価値を混同していないことを述べてきましたが、他にも混同してはいけないものが多々あります。
中でも、ステータスは特に注意すべきでしょう。
例えば、知名度と価値が一致しないことは理解しやすいのですが、感覚的には似たものとして扱ってしまうことがあるかと思います。
また、既婚か未婚か、所有する車種はどうであるか、職業は何かなど、ステータスには惑わされる要素が多く含まれています。
8.まとめ
今回は人の価値について考えてきました。
知らず知らずのうちに、生産性が人の価値と結び付いてしまうことはよくあると思います。
それをどれだけ切り離して考えられるかで、人柄が変わってくるのではないでしょうか。
評価と被評価に慣れてしまった人間関係から脱却するのはなかなか難しいですが、少しずつ修正しながら、心からの人間関係を築きたいものです。
是非、皆さんの考える「人の価値」についても、お気軽にコメントいただければ幸いです。
また、感想などもお待ちしております。