人付き合いが面倒な方、例えばある出来事を境にその人と仲良くなったり、反対に急激に仲が悪くなったり、信じたくなったり猜疑心が強くなったり…という経験はありませんか?
今回は人付き合いには必ずついてまわるバイアスについて、考察していきます。
1.レッテルを貼る習性 2.尊敬する人の不祥事 3.バイアスは悪いものではない 4.ある出来事を境にイメージが変わったら? 5.まとめ
1.レッテルを貼る習性
知人の紹介で出会う予定の、彼氏候補の人がいたとしましょう。
情報によるとお医者さんだというのです。さて、どんな気持ちになりますか?
「年収も職業も立派で、是非仲良くなりたい!」
「人は中身が大事。医者だからって関係ない。」
など、様々ありそうですね。では、その人がパチンコで生計を立てるパチプロだったとしたら?
駆け出しバンドマンだったら?起業家だったら?
もちろん、どの職業を否定しているわけでもありません。
それが職業として存在しうる限り、世の一端を担っているわけですから。
それでも、なぜか世の人々は安定した職を選ぶ傾向にあるんですよね。
いやでも、人間は中身で勝負!といいつつも、考えますよね。
それは、容姿、性格、収入、相性、他にも人によって様々です。
では仮に、お医者さんだったとしましょう。ここで追加情報です。
「わりと金遣いが荒いらしい」
…少し残念に思いましたか?
「でも収入は十分にあるし!」「いやー、お金は慎重に遣うべきだ!」「それだけじゃ人となりはわからないはず!」など、こちらも十人十色。
さらに、その知人から「金遣い以外は本当にいい人で、何で彼女がいないのかわからないくらい。」「絶対お似合いよ!」と言われたら会ってみたくなる気もしますが、疑いたくなるところもいくつか考えてしまいますよね。
もし、この例の男女が逆だとしても、いろいろ考えてしまうことに変わりはありません。
しかし、重大なことが抜けています。
それは、まだ会ってすらいないということ。
その人自身から得られる情報をまだ何も手にしていません。
なのに、すでに人物像を作り上げては壊すことを何度も行ってしまうのは私だけではないと思うのです。
この例からわかることは、「人は、その人そのものを見ることができるのか。」
結局「お医者さんであるこの人は―」と、心のどこかでバイアスをかけてししまいます。
例えこの後会ったとして、どんな話をしても、「お医者さん」の域を越えない可能性が高いし、仮に内面を見ようとしても、見ようとすればするほど内面以外を気にしていることになるので、やっぱりレッテルを完全に剥がすことは難しいと思います。
2.尊敬する人の不祥事
生きていく上で、誰しもがたくさんお世話になった人が一人はいると思います。
例えば、職場の先輩。誰よりも親身になって話をきいてくれたり、時にはクレームや叱責の盾になってくれたり、何も知らない自分に一から丁寧に教えてもらったりした、そんな恩師のような人をイメージしてください。
学生時代の先生でもいいし、昔からの友達でもいいし、パートナーでも結構です。
もし、そんな尊敬してやまない人が横領や不倫など何かしらの不祥事を起こしていたとしたら、みなさんはどう考えますか?
内容にもよるとは思いますが、その人をもう以前のような「その人」とは見れなくなる可能性が高いと思います。
しかも、尊敬する人の言動が、自分にとって負の存在となったり、ポリシーに反したりするほどに猜疑心が強くなるという人は少なくないでしょう。
さらに、「その人」との関わり方はどうなるでしょうか。以降も何もなかったように接することはできますか?
先ほどと同様、何もなかったように接しようと頑張っているということは、何かあったことを気にしていることになります。
まったくフェアにコミュニケーションを行うのは至難の技とすら言えそうです。
3.バイアスは悪いものとは限らない
先に「人は、その人そのものを見ることができるのか」と書きました。
結論から言うと「不可能」です。でも、そもそも「その人そのもの」って何でしょうか。
誰から見ても変わることのない真実の「その人」って存在するのでしょうか。
もちろん、存在していないわけではありません。誰にもわからない真理・真実としての「その人」は存在するでしょう。
しかし、その存在は認知できないのです。
なぜなら、結局「私」からの視点である以上バイアスが入り込むことに違いはないからです。
例えるなら、服みたいなものです。陳列されている服に、似合うも似合わないもありません。
しかし、誰かが着ることでその人との相性(価値)が決まります。着るまで誰も、似合うとは断定できません(推測はできますが)。服自体の存在は認知できますが、その人にとっての「服」は、服だけを見ても認知できません。
ちなみに、以上の結論は、カント哲学の「物自体」という概念から導き出しました。
※もしよろしければ、カント哲学を参照なさってください。
よって、レッテルを貼ることもバイアスを通して人を見ることも自然なことで、決して悪いことではありません。むしろそうしなければ人間的な生活は営めないでしょう。
◆下記記事も参考にしてみてください。
4.ある出来事を境にイメージが変わったら?
先ほど例にあった、尊敬する人の不祥事の場合、その人との付き合い方はどうするのがベストなのでしょうか。
これを考えるにあたって、いくつかの指針を紹介していきます。
a.尊敬を忘れない
どんな人であれ、その人は自分の人生に強く影響を与えた人には変わりありません。
いわばメンター(指導者、助言者、相談者的存在)です。
例え今「悪い人」のレッテルを貼られていても、少なくとも当時は素敵な人です。
何より、言動によって尊敬するか否かが変わるのではなく、その存在自体を尊び敬うのが本当の意味での「尊敬」です(これは、深くややこしい話なのでまた今度)。
今のその人に尊敬の念を持つのは難しいかもしれませんが、存在自体を尊敬することを心がけてみましょう。
b.ところで、それ、本当ですか?
その不祥事って、噂ではありませんか?
不祥事でなくても、「最近あの人変わったね(悪い意味で)」は事実ですか?
自分には悪影響がないのに、周りの人が言うから自分もそんな気がするというのは危険です。自分が本当にその人が変わったかを見極めた上で、距離を置く判断をしてみてください。
案外噂に踊らされているケースは多いです。
c.卒業だと思えばいい
「あの人は変わった」ことが確認できたとしましょう。
自分の気持ちに正直になると、最近「尊敬するあの人」と感覚がズレてきた気がする。
でも、「お世話になったし、距離を置くのもなぁ」と思ってしまう。そんな感覚を覚えるのではないでしょうか。
そんなときは、まずは正直な気持ちを受け入れるべきかと思います。
なぜなら、自分に嘘をついて生きていくことは、自分の人生の舵をきれていないことと同義だからです。
しかし、難しいのが本心と現実との折り合い。
そんなときに「卒業」という言葉で架け橋にしてみるといいのではないかと思います。「藍より出でて藍より青し」のようなイメージを持つとわかりやすいです。
また、人生には何人ものメンターがいると仮定すると、次のステップに進む良い機会とすら捉えられることができます。メンターは、自分の成長とともに変わってゆくものでしょうから。
d.すべてを否定するわけではない
本心と現実との折り合いをつけるのにもうひとつ。距離を置くことは、すべてを否定するわけではないということです。
10のうち3が自分とは相反する価値観を持っていて「間違い」だとしても、7まで「間違い」であるかはわかりません。むしろ、7が限りなく真であることもあるでしょう。
今事実としてあるその人の不祥事は、10のうち1の部分に該当するかもしれません。
もちろん、人間は均等に割合で思想を判断できませんが、残りの9の部分から目を背けるのは得策ではないはず。
でもその1がどうしても許せない。そんな状況でしょうか。だとしたら、なおさら距離を置いて間違いない。
なぜなら、このまま以前の関係を続けようとすると残りの9の部分も感情的に否定してしまうかもしれないからです。
一度距離を置き、また時が来たときに話せばきっと新たな関係がスタートできるはずです。
5.まとめ
人間関係には「別れ」はつきものです。本心と現実が入り交じり、さらに感情も入ってくるので余計にややこしくなります。
でも、そんなバイアスはあって当然。
大切なのはその相手を尊敬する姿勢と、自分の気持ちです。
一定の人間関係にしがみつくことなく、柔軟に考えることでより今ある人間関係も強固になってくるのではないでしょうか。
◆人付き合いに悩まれている方には、この記事もオススメです。