考えを押し付ける教育。人を変えようとする教育について

「○○教育」って、世の中に溢れていますよね。学校や家庭、社員、金融…なんて言葉が思い浮かぶのではないでしょうか。

しかし、どの場合にも共通して言えることがあると思います。それは、「人を変えようとしてはいない」ということ。

「人を変えるのが教育じゃないの?」と思う方がいるかもしれませんね。確かに広義でいうとそうかもしれませんが、厳密に言うとそうではない。というか、そう考えていると大きな失敗を犯してしまうと思います。じゃあ、その失敗って…?

1.人を変えようとしてはいけない
2.認知症から見る人間のサイクル
3.教育は再生産される
4.「人を変えようとしてはいけない」理由
5.自分を磨けば教育が変わる
6.まとめ

今回は教育の本質を垣間見ていこうと思います。

1.人を変えようとしてはいけない

「人を変えようとしてはいけない」と冒頭でも述べましたが、どういうことでしょうか。

人が成長するということは、人が変わるということ。
もしその変化が教育の結果だとしたら、「教育は人を変える」と言えるでしょう。

そうです、教育は人を変えるのです。

だから、国が戦争を起こしたときに手をつけるのは、真っ先に国民への教育でしょう。

ただ、真に教育をしようとするなら、人を変えようとしてはいけないはずです。
なぜなら、結果として表面しか変わらないからです。

これについては順を追って説明します。

2.認知症から見る人間のサイクル

認知症から見る人間のサイクルを考えると、人間は、子どもにはじまり、子どものように返ってゆく。
そんなサイクルがあるように考えられます。

認知症になると、「私はなぜここにいるの?」「これ、なんだっけ?」と、今まで何とも思っていなかったことが、突然わからなくなります。

例えば、机の上のコップを取って、どんな物かを確認してから置く。
「病院って何するところ?」と、当たり前のことがわからない。

「明日どこに行くの?」と数分前に尋ねたことを初めての質問かのように言う。こんな状態です。

この時、介助者はそれぞれ回答するわけですが、あまりにも同じことを何度も聞かれるので嫌になってしまうのですね。まるで幼児のようだと思うのです。

幼児は、コップを掴んでは落として水をこぼしますね。

言葉を覚えたてのときは「あれなあに?」と指を指して何でもかんでも聞ききます。
「明日はどこにいくの?」と何度も尋ねなくても、一度では理解しきれません。

ここに逆説的な現象を見ることができます。

子どもが生まれたとき、親が子どもにものを教えます。
しかし、その数十年後、今度は子どもが親を介護し、ものを教えている状態になっているということ

すなわち、完全に役割が逆転していることがわかります。

今回は認知症に限った例ですが、認知症でなくても、機械の操作や新しい制度などについては、子どもが親に教えることが多いかと思います。

また、身体的にも同じことが言えるでしょう。

初めは歩くこと、階段を登ることなど周囲の手助けをもとに身体を使います。
その後自立しますが、さらに時間がたつと筋力など身体的な衰えと共に、周囲の人や手すりなどの道具の力を借りて活動することになります。

人間は、子どもにはじまり、子どものように返ってゆく。そんなサイクルがあるように考えられます。

3.教育は再生産される

では、そのとき子どもが親に接する姿勢や態度はどうなるでしょうか。

きっと、親が子どもに接したそれに似ることだろうと思います。
なぜなら、身体的かつ経験的に、親の教育態度を覚えているからです。

仮に自分の子どもが、「このコップ、誰の?」と聞いてきたとします。

「それはあなたのよ」と伝えるか、「自分で考えなさい」と返すか、答え方は様々です。
ただ、その返答は自分自身が受けてきた教育が基になって表れている可能性が高いことが推測されます。

「自分で考えなさい」と返す人は、過去にそう言われて育ったのかもしれないということです。

これを親が認識した時点では、既に次の代、すなわち親からすれば孫の代にも、そんな教育が施されていることでしょう。

自分がされたことを今度は人にしてしまう状態を「再生産」と言いますが、まさに教育は良し悪し関わらず再生産されると言えます。認知症に限らず、虐待などもそう言われます。

4.「人を変えようとしてはいない」理由

自分が子どもに介護されることになったとして、その触れ合いの端々に自分の教育が映し出されることになるのではないか(教育の再生産)、と前述しました。

ここに「人を変えようとしてはいけない」理由があります。

心から「人を変えよう」とすることは、その教育を受けた人もまた人を変えようとするのです。
例え大変行儀のいい人に育っても、それは表面であり、その人には人を変えようとする心が根付きます。

変えようとする行為は、極端に言うと強制であり、当人の不自由であり、もしかしたら価値観の押し付けになるのかもしれません。

人間は、生物のサイクルの中で、歴史的に大きく進歩してきました。
それは、「創造」を伴う成長によって進歩してきたのでしょう。

そうでなければ、道具や制度など、自然や外敵、仲間同士の争いから身を守る術を産み出せません。

「人を変えよう」とする行為が、強制や不自由と結びつくならば、そこに「創造」が存在するスペースは限りなく少ないことになります。

よって、「人を変えよう」とする教育は、創造を奪い兼ねない悪しきものへと変わる可能性があるということになります。これが教育的な失敗です。

「教育は人を変える」という事実に変わりはありませんが、「人を変えようとする教育」は、良い方向に向かうものではないのではないでしょうか。

5.自分を磨けば教育が変わる

では、どうすればいいのか。それは、教育を行う主体自身が「創造」を許容、追究し、あらゆる価値観に寛大である必要があります。

すれば、これまでの自分を疑い、常識を覆しながら常に学び続けること。
人間観のパラダイムシフトです。

人間のサイクルの中で、子孫にもまた同じことをしてしまわないよう、どの世代かで過ちに気づかなければなりません。

それはまるで殻を破るような、新たな次元へと進むことを意味します。

理論上理解できるのですが、これを現実にするのは簡単ではありません。
まず、これまでの自分を否定的に見て、能動的に変えていかねばなりません。

例えば、昔の人は「叩いて指導するのは必要なことだ」と信じていましたが、今はそうではありませんよね。

でも、未だに「昔はよかったのに」という人が後を絶ちません。
これは、殻を破れていない状態そのものです。

自分の受けてきた教育と、やってきた教育のサイクルから抜けだせていないのです。

6.まとめ

人間は、子どもにはじまり、子どものように返っていくことを考えました。
そこで、自分の信じてきた教育観が子どもに表れ、またそれが次の世代に受け継がれることを見ました。

また、「変えようとする」ことは、極端に言うと強制や不自由のようなものだということも述べました。

すると、人を変えようとする教育は、結果的に「変えようとする」ことを再生産してしまうので、強制や不自由を再生産し、「創造」の余地があまりないことになるのではないかというお話でした。

私たちが共同体として発展していくためには、過去をそのまま享受するのではなく、創造的な視点で修正をかけながら次世代に託すしかないと思うのです。

そのためには、過去を疑う目と変えていく力を養い、少しでも前進しようとする姿勢が大切なのだと思います。

世界中の人がそれぞれ1ミリでも進めば、それだけで大きな改革に繋がります。

まずは、教育の悪しき慣習が再生産されやすいことを自覚し、随意的に活動していくことが先決だろうと思います。