自業自得は教育の分野ではNG?なのか。
自分が招いたことなんだから仕方がないでしょ!という場面に用いられる「自業自得」という言葉。
日常的に使用されますが、この言葉の背景には少し危険なものがありそうです。
1.危険たる理由
2.他者が使う言葉ではない!?
3.本来の意味
4.教育の分野ではNG!?
5.共通項
6.未来を見る
7.まとめ
今回は「自業自得」の背景に潜む影を見ていきます。
1.危険たる理由
例えば、万引き犯が捕まって、その後人生が悪く傾いたとしましょう。
こういった場合に自業自得という言葉がしっくりきます。自分でやったのだから、その報いなのだと。
少し異なりますが、万引き犯が万引きをした直後に交通事故で大ケガをしたとします。
これも、人によっては自業自得だと言うかもしれません。
これが、犯人が逃げている最中であれば、なおのことそう思えるかもしれません。
しかし、これらのことを「自業自得」で片付けてしまっていいのでしょうか。
この言葉に一種の「冷たさ」を感じてしまうのは私だけでしょうか
危険な理由は3つあります。
1つ目は、思考が停止するポイントになることが挙げられます。
「自業自得だよね」と言うと、その後の未来についてはあまり考えなくなります。
自分がやったのだから自分が悪い、あとは知りませんと言わんばかりに終わりを告げます。
しかし大切なのはここからどう償うかです。
よく、責任を取るために辞職する社長や管理職の姿が報道されますが、あれは責任を取ったことになりません。
確かに仕事を失うことは大きな損失ですが、事件の後始末は本人ではなく残された人がやる羽目になります。
これでは組織に対して何の責任も果たしていないと言えます。
この例と同じように、「自業自得」と言えば話が終わってしまうのです。
一番大切な「その後」について語られることはないという危険が潜んでいるように思われます。
2つ目は、断罪してしまうことです。
自業自得と言い放った瞬間に、「その人が悪い」と確定させてしまいます。
問題は、実際にその人が本当に悪くない可能性があることです。
濡れ衣を着せられた場合や、ケアレスミス、本当に知らなかっただけで悪意は毛頭ない場合などが考慮されていません。
なのに、因果関係があるように見えたその瞬間から断罪してしまっては、真実が見えなくなったり不用意に人が傷ついたりしてしまいます。
3つ目は、後悔にしかならず、次に繋がらないことです。
仮に、相手に「今回は自業自得だね。次から気を付けよう。」と言うようなことが伝わったとして、その本人はどう思うのでしょうか。
真面目な人であれば、「確かに、自分が悪かった」と思うでしょう。
しかしそうでない人ならば、「そんな言い方しなくても!」と、伝わり方自体に怒りをあらわにするかもしれません。
少なくとも、両者ともあまりいい気はしないでしょう。
もし、本当に相手のためだというなら、次から頑張れるような勇気づけをしてあげる方が建設的です。
「自業自得」と捉えられるニュアンスを伝えることにより、本来的な「改善」の目標から遠ざかってしまうのです。
もし直接相手に言わずとも、「自業自得」と捉えた時点で建設的な思考はあまり働かなくなります。
2.他者が使う言葉ではない!?
1つ目の理由である、思考が停止してしまうことについて考えてみます。
なぜこの言葉によって停止してしまうのでしょうか。
それは、人が人に対して使うからだと考えられます。
「おれ、自業自得だよな」と自分の行為を照らして反省をするならむしろ美しい言葉とすら言えるのかもしれません。
しかし、他者が言うことによって「反省しろよ」と、出来事の理解も進まないまま「反省」を強制してしまうという本末転倒なことになります。
まるで大人が子どもに対して「謝りなさい」と、形式ばかり意識した教育的価値のない謝罪現場と類似しています。
よって、人が人に言うと本当の目的から外れてしまい、思考が停止してしまうのです。
3.本来の意味
2つ目の理由、断罪することについて考えていきます。
「自業自得」は、元々は仏教用語だそうで、善行も悪行も含めて自分の行いの結果は自分自身が受けることの意だそうです。
現代では語感に「悪」が乗っかっていますが、本来は善も含まれるようです。
そう考えると、断罪することは誤りであると考えることができます。
価値は関係なく、あくまで事の結末を引き受ける世の理について述べているだけなのでしょう。
断罪することで、「自分に返ってくる」を通り越して「悪いことをしたのだから仕方がないでしょう。あとは勝手にどうぞ。」と、人を突き放すことを前提にしてしまいます。
そして、他者との競争関係を築くことに繋がります。
そうではなく、協力関係が理想だと思われます。
4.教育分野ではNG!?
3つ目の理由の、次に繋がらないことについて考えます。
例えば、走るなと言われたのに走って転んだ子どもがいるとします。
これはまさに自業自得ですが、親が「自業自得ね」と考えてしまうとよくありません。
なぜならその子自身が学ぶ機会を作ってあげられないからです。
先ほど教育的価値のない謝罪現場の例を挙げましたが、思考が停止するのは本人もさながら、周りの人こそが思考を停止させています。
それが親がであれば、子どもの教育の機会が奪われることになるかもしれません。
本当に大切なのは、「走るな」の意味を理解して自発的に遂行することです。
だから、親は「次からどうしたらいいかな?」と問いかける必要が出てきますし、そんな環境を設定することこそが子どもへの愛になるのではないかと思います。
以上のことは、親だけでなく、教育を行う立場の人すべてに当てはまります。
教師はもちろん、会社でいうと上司、指導係などです。
「自業自得」と言えばすっきりしそうですが、本当に相手のためにはならないことがうかがえます。
言いたくなる気持ちもわかるのですが…
5.共通項
これまで3つの危険たる理由について考えてきましたが、どれにも共通するのが「誰が自業自得と考えるか」です。
思考の停止、断罪、後悔、これらは行為主体である本人の考えるべきことであり、他者が言うと冷たい言葉として表れてしまいます。
そして、他者が言う意図の中には「仕返し」に似た要素があることを否定しきれません。
本人が「自業自得だ」と考えるからこそ意味があり、前進の兆しとなるのです。
確かに、「自業自得だよね」と言いたくなるくらいストレスを受けることはありますし、そう思うことは決して否定することではなく、当たり前のことです。
だからこそ、この気持ちを丁寧に受け入れながら次の行動に向けて建設的に考えることが大切なのではないでしょうか。
6.未来を見る
誤解のないように言うと、自業自得だと思うこと自体が良くないと伝えたいわけではありません。
当然、自業自得だと思うことは山ほどあるでしょう。
すっきりした気持ちになることが多々あるわけで、ずっとモヤモヤした気持ちを抱いていた人に取っては映画のような勧善懲悪な感があります。
だからこそ、これで終わらないでほしいと思うのです。
たぶんその相手は本当に悪いことをしたのでしょう。
だからこそどう責任を取らねばならないかを問うていかなければならないのです。
その人が痛い目を見たのは、責任を取ったことにはなりません。
痛い目を見たからこそ、これまでとこれからを考えるきっかけになるのです。
「今までやってきたことだから仕方がないよね」ではなく、「さて、これからどうしようか」と一緒に考えていけると理想なのですが、それは現実とは別の話になりそうですね。
7.まとめ
今回は「自業自得」に潜む情意や影響について考察しました。
頻繁に使用される言葉だからこそ、その意味を見つめ直すことは、今後の自己を形成する上でのヒントになるはずです。
「自業自得だ!」と考えている自分は、実は相手に怒りを向け、裁きの鉄槌を下していると認知することで勧善懲悪モードから脱却できるのではないかと思います。
自分も含めて、誰もが気づかずのうちに人に迷惑をかけているものでしょうから、できるだけ協力関係を築きくことが大切なのではないでしょうか。