親ガチャの意味や価値観について。是非や捉え方を解説。

親ガチャの意味や価値観について、是非や捉え方などと合わせて解説致します。

まず、親ガチャってどうしようもないのか?

世間で「親ガチャ」という言葉が言われるようになってから少し経つように思います。

そもそも「親ガチャ」とは、子供は親を選ぶことができず、親の特徴やステータスが子供に反映されますが、良くも悪くも選べない環境や遺伝的要素を指す言葉です。

ガチャガチャ(ガチャポン)のように予測や選択が不可能であることをメタファーとして表している絶妙な切り口の言葉ですね。

これについてみなさんはどんな思いがありますでしょうか。一見どうしようもない親ガチャですが、深く考えていくとすごく興味深いものが見えてきます。今日はそんな親ガチャについて考察していきます。

1.親ガチャという言葉の是非
2.親ガチャをどう捉えよう?
3.「ガチャ」と言わせない
4.まとめ

1.親ガチャという言葉の是非

私が初めて聞いたとき、少し俗で品のない言葉のように感じました。
しかしだんだん慣れてくると、深い背景をよく端的に表していることに気がついてきました。

親ガチャという言葉は、誰もが抱く不明瞭でモヤモヤとした思いを明確な概念へとのし上げるのに一役買ったのではないでしょうか。

そして、派生的に「上司ガチャ」「教師ガチャ」「隣人ガチャ」など他の文脈に転用させることができるという変身機能つき。なかなか興味深い言葉ですね。

一方で言葉というものは、曖昧な事象に輪郭や存在感を与え、人々の共通概念として確立させるものだと言えます。

例えば、「LGBTQ」は性的マイノリティの人を表す言葉ですが、この言葉が世に広まってからは、まったく無関心な人も「そういう人もいるんだ」と認識せざるを得なくなったり、当の本人が「自分みたいな人が他にもいるんだ」と心が軽くなったり、マジョリティが「配慮すべき事項なんだ」と感じるようになったりしました。

他にも「AI(Artificial Intelligence、すなわち人工知能」という言葉は、研究者と巷に認識の解離があり、誤った概念だけが独り歩きするほどに急速に広がり、その名を世に知らしめました。

これら以外にはその時代の流行語が先に述べた「言葉」に該当するのではないかと考えられます。

このように、「親ガチャ」という言葉もそうでしょう。この広まりによって、

①子どもに該当する者(特に悪影響を受けている人)
②親に該当する者(親からすると子ガチャとも言えるのかもしれませんね。)
③ ①②のどちらでもない人(第三者)

がそれぞれ自分の立場から「親ガチャ」について考えられるようになったのではないでしょうか。

具体的には

①は、「悩んでいるのは自分だけではない」
②は、「もしかして、親ガチャと皮肉られるような教育をしているのかも」
③は、「そうならないようにしよう」

などというような思考が可能になったのではないかと。

親ガチャという言葉を、単に流行り言葉とだけ捉えるのではなく、「なぜそんな言葉ができたのか」みたいな、もう少し深い部分まで掘り下げていくと言葉が活きてくるのかもしれません。

2.親ガチャをどう捉えよう?

「親ガチャミスった、詰んだ」のような捉え方はもったいないように思うのです。

なぜなら、親ガチャという言葉を得ることで、親が「ハズレ」であることに気づけるからです。
逆に言うと、親ガチャという言葉がなければ、変な親を疑いもせず、ただ受け入れて生きていくことになっていたかもしれません。

その場合、他人の親と比較できる環境に置かれたときに初めて「あれ、うちの親はおかしいぞ」と気づきます。いや、遅くても気づければ時間なんて関係ないかもしれませんよね。

ただ、言葉が経験に先行して、早めに気づけるに越したことはありません。そんな役割を「親ガチャ」という言葉は担っているのではないかと捉えております。

では、親ガチャの「ハズレ」を引いた場合、どう考えればいいのでしょうか。

これは、チャンスであると考えるのがよいと思います。
ただし、環境的要因と遺伝的要因で少し考え方が変わるので分けて解説していきます。。

a-1.環境的要因(過保護)

よくある例に、ずっと監視されている、何かにつけてひどく口出しされる、決定権が自分にない、というものがあるかと思います。

この場合、逃げ切った先に幸せが待っているのが確信できます。
なぜなら、今が絶対的に不幸だからです。

これらはどれも自由に関係していますが、環境から逃れることで自由を手にできるわけです。

もしかしたらギプスをとった直後のように、親に縛られた分、その後少しの間そこまで自由を感じないかもしれません。それでもそれは相対的な不幸であり、あまり気にしなくていい部分でしょう。

「親ガチャ」という言葉を得て、自身の環境をメタ認知できるという例ですね。

a-2.環境的要因(経済面)

貧しい家庭に生まれた、お金に厳しい文化などの場合はどうでしょう。これは、案外誰もが「うちはお金がなくて」と言っているのでは??

反対に「うちは結構お金があって」と心から言える人はどれほどいるのでしょうか。すなわち、みんなお金がないと思いがちなのかもしれません。

なぜなら、お金には上限がないからです。

しかし、テレビや電子レンジすら買えないような貧しい家庭の場合はどうなんだと聞こえてきそうですね。

確かに「絶対的」に貧しいと言えそうですが、そうでもありません。
なぜなら、貧しさは必ず「相対的」な判断だからです。

例えば、みんな明日の食事にすら困る村があるとすれば、テレビがなくても貧しいとは断定できません。よって、私たちはいつも他の家庭や地方、国などと比べて「貧しい」と判断していることがわかります。

だからといって、周りの人がテレビがあって外食もそれなりにできる余裕があるのに、うちは何もできないというのは無視できるわけではないですね。

だとすれば、その劣等感を素直に引き受け、かつこれを原動力にするしかない。ここで向き合うのをやめて他人を羨ましく思うのは得策ではないでしょう。少しでも前に進みたいものですね。

他にも、AbemaTVの「世界の果てに、ひろゆき置いてきた」という番組では、平均年収が8万円ほどの国に行っていましたが、多くの方は「幸せに」生きておりました。

幸せの定義などにもよりますが、自分自身が考える幸せに向け、相対的ではなく「絶対的(自分本位)」で考えるように心がけましょう。

b-1.遺伝的要因(容姿)

顔立ちが気に入らない、身体つきが気になる、太りやすい体質などといったことでしょうか。
一見変えようのない「無理ゲー」感。

この場合は大きくマインドを変える必要があると思います(遺伝的課題は努力で解決できる範囲はあれど、現代科学では限界があるからです)。

「今あるものをどう使っていくか」。これに尽きます。
正直変えようのないものは変えられません。嘆いても時間が過ぎるだけなのです。

でも、それが絶対悪ではなく、それ以外の分野で伸びるということが「証明」されているわけです。何から手をつければいいかわからない状態ではない。

以前、私もそんなことに悩んでいたある日、(言葉が少し悪いですがお許しください)自分より顔立ちが良くないと思う友達に出会ったのです。

聞くところによると、「何人も女性とお付き合いしてきた」というのです。
これには驚きました。驚いたのは2つ。

「容姿は関係ないの?」
「自分はなぜ諦めていたの?」

そして、彼は何といってもコミュニケーションが上手なんです本当に。瞬く間にまわりに輪ができます。私はそこで遺伝的要因はカバーできる部分や可能性もあるのであると。

私は、親ガチャを理由にありもしない可能性の世界に逃げていたのです。

もちろん、どうしても逃れられない辛い事実もあることでしょう。そんなときは親ガチャという言葉に頼って、「もう限界!」と叫べばいい。

それだけで心が軽くなるなら上手く言葉を使えばいいと思います。

b-2.遺伝的要因(病気、障害)

この障害という言葉は、こういった捉え方もできます。「誰にとって障害なのか?」

例えば、車椅子で生活する方がいたとして、階段を登れず、毎回エレベーターを利用しなくてはならない場合。

階段を作ったのは「健常者(この言葉は便宜上使用します)」と言われる人たちですので、「健常者」から見て障害があるのが「障害者」ということになります。

では、スロープにした場合は?
誰も困りませんよね。すなわち「障害者」の区分が必要なくなるんです。

障害をお持ちのかたは「健常者」を基準に「障害者」と言われているだけで、本当は障害なんて存在しないのではないかという考え方もあります。

とはいえ、スロープより階段が適切な場合は往々にしてありますね。そのときは、「健常者」が「障害者」の手助けをするのが「義務」とするのが妥当です。

「障害」を遺伝で得た親ガチャの場合に関して、変わらなければならないのは社会の方なのかもしれません。(あくまでも1つの捉え方です)

「親ガチャ」という言葉は、結局使い用なのではないでしょうか。
メタ認知するために使うも、辛い事実を認めるために使うも、やる気を起こさせるために使うも良し、自分に正直になりつつ活路を見いだせたら、それはもはやガチャではありません。

3.「ガチャ」と言わせない

大金持ちの家庭に生まれたときの親ガチャもあれば、貧困な中育った親ガチャもあります。
また、天性の才能に恵まれた場合からそうでないことまで。

そんなありとあらゆる選択不可能なことを親ガチャと呼びつつも、比較的マイナスな側面を捉えて親ガチャと言われがちな気がします。

語感には消極性を内包していることが伺えます。

「いや、そもそもガチャって言っていい?」、私はそんな違和感を覚えています。
確かにガチャかもしれません。

でも、それで終わってしまっては、運命は変えられないことになる。
じゃあ、人は生まれながらにして幸福度合いが決定されているのでしょうか。

いえ、決してそんなことはありません。というか、そんなことはないと信じなければなりません。
遺伝子的には大病を患う運命であっても、それは不幸の根拠たりうるのか。

幸福に近づく鍵は、ガチャで出た運命にどんな価値をつけるのか、だと思います。

例え生まれを選べなくても、この先はすべて選べるのではないでしょうか。

あくまでも考え方や捉え方の1つとなりますが、他者と相対的に比較をし、自分を卑下することよりも、今あるものから絶対的に考え、どうしていきたいのかを考えるマインドをこの記事でご紹介させて頂きました。

4.まとめ

いかがだったでしょうか。

「親ガチャ」ひとつとっても多面的な考え方があります。

本記事で大切だと伝えたいことは、「可能性の中に逃げ込まないこと」です。

無い物ねだりではなく、建設的な未来に向けて歩むしかないのです。
要は言葉の使い用です。

他者と比較し、自分を不幸だと考えることも1つの考え方であり、間違いではありません。
ですが、自分にとってプラスになるように捉え、前向きに生きることの重要性、そして建設的な未来に向けて一歩踏み出すことが、大切であるということです。